◼自由が本性である芸術には、政治権力の現実と常に緊張関係を持ち続けるが、互いに存在し続ける事しか出来ず、克服したかと思うと、また起き上がる現実との闘いの反復という、まさにプロメーテウスのような宿命を担っているということなのです-元東石

KOREA + JAALA 1999ソウル美術館

KOREA +JAALA 1999

9月28日

国際シンポジウム/対談

於世宗文化会館


〇金潤洙

嶺南大学教授美術評論家

(韓国)

〇針生一郎

美術評論家(日本)

〇金芝河

詩人/文化思家(韓国)

〇尹吉男

中央美術大学教授批家(中国)

〇元東石/木浦大学教授/美術評論家(韓国)

〇成完慶/仁荷大学教授/美術評論家

〇趙仁秀/湖厳ギャラリー学芸員

〇尹吉男/中央美術大学教授//批評家(中国)


〇王春立/美術家協会副秘書室長(中国)

金潤洙

これまでの一世紀、日本・中国・韓国はそれぞれに違った状況にありました。

日本は、帝国主義という名のもとに韓国、中国に被害を与え、戦後は情報化の進んだ先進国として進み、また中国は社会主義という体制をとる事になりました。朝鮮半島は、世界で唯一の南北分断という状況にあり、北は社会主義、南は一応の民主主義として分断されています。今回はそうした国同士の違いを超えて、民衆の視点、さまざまな抑制を受けている民衆、制度、思想、政治、生きているこの時点での問題を、皆さんと論議したいと思います。

80年代の中頃、日本で「第三世界と民衆」という本を読み、新鮮な感覚を受けた事を覚えています。そしてその時から数年のうちに世界は大きな変化を迎えています。また民衆美術の熱気も、変化を受け入れざるを得ませんでしたし、世界的に見てもその傾向がみられます。しかしながら民衆的な観点から見れば、根本的な事は何も変わっていないのだと思います。そういった根本的な問題から国内のそれぞれの問題、我々の共通の課題をこの場で話し合っていければと思います。


針生一郎

アジアの美術は、19世紀末に西洋の遠近法リアリズムという一貫した課題を担わされていると思います。ところで、19世紀というのは、西洋において後期印象派が起こりルネサンス期以降の遠近法が崩壊した時代です。私はそれを、リアリズムが肉眼で見える現実だけを捉える技法としてのリアリズムと現実の全体を想像力や観念を加えて捉えようとする総合化の意志としてのリアリズムとの両極に分解したのだと捉えています。したがって、アジア独自のリアリズムというときには、遠近法リアリズムというだけでなく、それ以外のモダニズムと云われる諸潮流をも受け止めながら、独自のリアリズムを探求しなければならないということになります。日本でも第二次大戦以前には靉光のように、シュールリアリズムの影響を受けながら、シュールリアリズムの根底としてのリアリズムをアジア独自のものとして造り出すために北宋の院体画のような画風を取り入れるというような作家もいました。戦前のアジアのリアリズムというのは、右に挙げた靉光のように、西洋的なものと東洋的なものとを、様式として結合、折衷するということに終始していたのだと思います。ですが、戦後は、そういった様式の問題では済まなくなります。戦後の西洋美術の源流となったといわれるフランスのジャン・ディビィッフェル、彼は1930年代から精神病者の絵画に興味を持ち、アール・ブリュットという、それらの作品を展示するための美術館を造るといった活動をした人ですが、彼の言葉に「絵画が絵画でなくなるぎりぎりの限界でそれを蘇らせたい」というのがあります。それはダダイズムの「あらゆる行為、あらゆる日常的な物体を、そのまま芸術作品にしうる」という思想を受け継いでいると思われますが、彼の思想は先の言葉に集約されていると言えます。以上の事を踏まえるならば、戦後のリアリズムとは、様式として既成のものを折衷しようとするのではなく、社会の現実の中に既成の芸術を超える契機や要素を見出だしていこうというものだと言えます。日本では1950年代に、ルポルタージュ絵画と呼ばれる、日本国内の米軍基地に反対する農民や漁民達の闘いなどを中心にしたリアリズム運動がありました。それは、1960年代に西洋の抽象表現主義、アンフォルメルなどの流入とともに消えてしまいましたが、私達がJAALA.第三世界と交流し、そこから学ぼうというグループを造ったのは、その継承のためです。その頃、韓国の民族民衆芸術運動に興味を持ったたのも、そこには、社会的な機能として芸術が機能するためにリアリズムを把握する、という新しい観点があったからです。この民衆芸術運動には三つの面があると思います。まず民衆の苦悩を描くという面、それから芸術家は民衆の媒体として、学校や教室を開き、これらの両面から今まで疎隔されていた芸術と民衆とを密接に結びつけるという面です。同じような観点で、私は韓国の他に、タイやフィリピン、インドネシアで続いている民衆芸術にも注目しています。ところで近年、今までの西洋に手本があるモダニズムではなく、また、伝統をそのまま継承するというかたちのものでもなく、伝統や神話、伝説を積極的に生かしながら、現代の社会的な矛盾を直接的に反映するというものです。たとえば、今度の展覧会にも、仮面の作品を出品しているインドネシアのダダン・クリスタンという作家がいます。彼は東京都現代美術館で開かれた東南アジア展で、2メートル半程の何体ものテラコッタの人物が、政治的犠牲者の遺体を抱えて林立しているという作品を出品していました。このテラコッタ像を使った別の作品をスライドで見せてもらいましたが、それはインドネシアの海岸で、海にかかるところにこのテラコッタ像をずらっと並べることで、スハルト政権によって、その犠牲者を悼む人間さえも海に追い詰められるという光景を作り出していました。私は、何故スハルト政権下にあってこういった作品の発表が可能であったのか彼に尋ねると、それは芸術運動として、支持者が支えてくれるからだと言っていました。もう一人今回の展覧会に出しているフィリピンのブレンダ・ハハルドという女性は、フィリピンから中東諸国などにメイドとして出稼ぎに行っている女性達が、虐待に近い扱いを受けている姿をタロットカードの形式でずっと描いていました。またシンガポールのタン・ダウという作家は、ある日本の展覧会で、写真のフィルムが、クジラのヒレを原料に作り事から、部屋一杯クジラを描いたデッサンとフィルムの箱を対比的に並べるという作品を出品していました。私はこういったインスタレーションを含めて、そこに新しいリアリズムの展開を見る訳です。勿論絵画や彫刻においてもリアリズムは追究していかなくてはならない訳ですが、主としてインスタレーションに近年の新しい展開が見られ、またそれは、あくまで、リアリズムの文脈の中で捉えるべきだと思うのです。また、アジアを考える場合には、その源流である中国を抜きにして語る事は出来ません。ただ、中国には政治的ポップ、パフォーマンス、インスタレーションなど非常に盛んな流れがあるにもかかわらず、それが追いやられている現実があります。そこで私は、1995年に開かれた、日本と中国の美術評論家のシンポジウムで、こういう傾向を禁止すれば、作家の海外流出を招くだけだから禁止などせず、リアリズムの観点から正確に評論するべきだと、提言しました。すると、中国側の答えは、我々は禁止しているのではなく、1989年に北京の中国美術館で開かれた展覧会で、インスタレーションやパフォーマンスが大量に出品されたが、それ以後、あれは芸術ではないという意見が中国美術家協会の大勢をしめたのだ、というものでした。私はここで、インスタレーションを、早急にアジアの美術が全体として認めるべきだと言っている訳ではありません。しかし、結果としては認めるべきものです。インスタレーションの背景には、マスメディアを通して広範に浸透している大衆文化があり、これを無視することは、言い換えるならば、美術の、あくまでまでも少数の受け手しか相手にできないという限界を無視すること、つまり、大衆を無視することになるからです。昨年、東京で行われた国際美術評論家連盟の総会で、韓国のモノクローム抽象について報告をした学芸員が、「現在モノクローム抽象も行き詰まって、民衆芸術がポストモダンだといわれているけれど、あれはマルクス主義に拠っているから古い。ポストモダンは、第三の若い世代が両者を総合して作りだすであろう。という意見を述べました。私はそれに対して、第三の世代というのは若い世代に期待するというのではなく、その課題は大衆文化をどう取り上げ、それを批評し克服していくか、ということであろうと答えました。たとえば、日本の大衆文化にある、漫画やアニメーションは、今や、全世界に無国籍なかたちで、日本製であることすら知らせずに浸透しています。私たちは勿論、この日本的な漫画やアニメーションを認めているわけではありません。本質的には敵だと思っています。しかしそれを、批判したり敵視するだけでは何も解決しません。美術は、例えばポップアートのようにその一部を取り上げたりしながら、その画像を通して批評することをしなければなりません。

今日のリアリズム、あるいは民衆芸術運動は、もっと積極的に大衆文化の批判、批評に具体的な作品を通して乗り出すべきです。かつて、ベンヤミンは、大衆文化の映像を否定せず、そのなかに民衆の集合無意識を探りながら、批判していくという批評を行いましたが、それは、今、芸術そのものに求められているのだと思います。そのとき、インスタレーションやパフォーマンスという形式は、有力な一環として、入ってくると思います。


金芝河

一ヶ月ほど前のことですが、洪性潭(ホンソンタン)という作家の展覧会で、「水の上で20日間」というタイトルの絵を見ました。その絵を前にして私は、体で悟る、という体験をしました。今日は、そのことを皆さんに話したいと思います。洪性潭は、民衆美術運動にずっと関わってきた作家であり、小説家のハンソギョンと北朝鮮に行くということでKCIAに逮捕され、20日間の拷問を受けた作家です。洪性潭のその一貫した抵抗的リアリズムからは、東アジアのたくましい美学的背景を、また一人の人間の誠実さを感じることができます。そのことから私は、東アジアの今後の課題を考えるとき、洪性潭を模範としなければならないと思うわけです。東アジアの美術革新を、中国の張法の美学を背景として考えてみましょう。その美学原理は、先秦時代に見る、魏晋時代には、味わうそして宋代になると、悟るという考え方に発展しました。これを現代に当てはめるならば、東アジア美術の美学的な課題は、この三つの段階のうち、体で悟るという観点で考えるべきだと思います。現代の美術の中で一番の課題は、大衆文化大衆芸術から消えてしまったアウラ、超越性を取り戻すことができるかということだと思います。もちろん、文化権力、文化資本主義にいきつく今の大衆文化の流れに抵抗することは必要です。しかし同時にそこから文化民主主義をいかにして手に入れるかという努力こそが必要なのです。アウラ、超越性の回復とは、東洋科学の核である周易、正易、古代のアイコンと、デジタルテクノロジーやサイバースペースとを連帯させる新しい美学的科学の創造にかかっているといえます。もしそれを怠るならば、民衆が芸術と統合されていく課程そのものが、現代の科学技術による初歩的な媒介にとってかわることになり、それは民衆の世界理解を不可能なものに、そうした堕落した認識は真の世界変革の意志に反作用を起こすことでしょう。ですからアウラの回復を真剣に考えなくてはなりません。なぜなら、アウラとは単なる神秘主義などではなく、世界を理解するための包括性であるからです。それにはまず美術一般を通じて、感覚と悟りとの間の美学的ツールを発見し、表現する事が必要です。これには霊的な、深い宇宙認識主体においてこそ可能だという条件がつきます。無碍という舞踏の踊り手であった元暁の思想、現実総括である七識と宇宙無意識とである八識とを、一心という統合的認識主体として捉えるというものがあります。しかしそれは一面的な絶対的認識というのではなく、悟りと愚かさの両面に相対化し、それをまたひとつに統合するという意識なのです。洪性潭の抵抗を瞑想に連続させた優れた作品の成功に対して、私は大きい感動と、それとともに、悲しい教訓を覚えます。彼は、苦痛に満ちた20日間の水責めの拷問によって崩壊した感覚の地獄の中から、水の根源をつうじて、故郷の美しい青い海の色を見ましたし、またその水の中から限りない平和の聖なる光明を取り戻すことが出来たのです。それは最後の悟りでありました。私達は、この悲劇的逆説を今かから深い苦悩とともに勉強していかなければなりません。この美しい作品は、彼の人格と芸術の中に赤い血のように染みていく苦痛の感覚の中から咲いた、白い宇宙の花なのです。彼が感覚の崩壊、極限の状態におかれた感覚から、たんなる恨みや憎悪に進むことなく深く大きな悟りを持つことが出来たのは、誠実で創造的な、霊的美的認識行為があったからです。洪性潭の霊的認識の中には、アウラ、超越性がすでに含まれいて、それが自分自身を拡大させることにより、人間というものが見えてくるのですが、この人間と作品が自分自身を超越することによって、結果、人間的勝利と、その作品にけっして歪曲することの出来ない明白な白い陰、聖なる美しさを与えたのです。ここで注目しなければならないのは、そこには、聖なる美しさという一面だけではなく、自身に対する限りない否定と、限りない嫌悪感というものを感じるということです。これは韓国の民衆芸術の本質を表しているといえます。では今後、アジアの美術はアウラの回復だとか悟りへ至る美学的ツールの発見といった根源的な問題をふまえて、具体的に何かに立ちむかわなければならないのでしょうか、最近見られる日本における極右の再武装、文化的右翼の理念の宣伝、または、軍国主義的な戦争的人間観の教育。東アジアと太平洋全体は大きい日本におけるこういった事情によって、例の無い程の緊張が引き起こされています。これは東アジアと民衆全体と芸術家、美術家達の第一の敵であり、抵抗対象といえます。私たちはこの緊張にいかにして対応しなければならないのでしょうか。そのためには洪性潭から美的、論理的パラダイムの教訓をひきださなければなりません。どうしてかというと、日本極右の美学は非常に独特な悪魔的な課題を持っていて、彼らは限りなく無責任で無気力な感傷主義を、あたかも美であるかのように、また論理でもあるかのように、領布しています。美術のリアリズムは、いかにして、この極右の美学を克服することが出来るでしょうか。彼らの腐った感覚に立ち向かうことが出来るのは、シャープで新鮮な感覚です。その感覚から出発して、深い宇宙的な全人類愛で全生命界的な愛と尊敬を悟ることです。それが真の美に私たちを導いていきます。記憶は、真の芸術のための真の領域です。私たちは記憶しなければなりません。54年前、日本の戦犯たちによって、東アジア全体の民族に与えられた極度の苦痛に満ちた感覚の崩壊を。またその極限の感覚の記憶から、皆の中で可能だった真の悟り、その感動的で悲しみの世界を。宇宙愛と人類愛、その大きな悟りの世界を、希望の世界として力強く表現しなくてはいけません。政治と違い、芸術と文化には妥協がありません。ですから私たちの文化とその美学は、国粋主義、軍国主義をはるかに超えるものでなくてはならないのです。東アジアの民衆美術の最大の課題は、文化資本主義、文化権力といかにして戦うかということです。そのために感覚から悟りに至る美学的ツールでを発見し、大衆的複製芸術の中からアウラを回復させることです。つまり、大衆的な美術を民衆の普遍的瞑想行為から生まれる悟りによって大きな民衆文化へと創造しなくてはならないということなのです。みなさん、くれぐれも、洪性潭の世界を記憶して下さい。

元東石


今から、日本の美術が韓国におよぼした否定的な影響

と肯定的な部分について、お話します。まず歴史的な話からはじめましょう。今世紀初め中国と日本は近代化への大きな一歩を踏み出します。中国は清王朝に対して、下からの革命と呼ばれる辛亥革命を起こし、一方日本では、武士に依る封建社会を超えるために、それまであった天皇制を温存した。中国とは逆の上からの革命、明治維新が起きたのです。そして韓国では、下からの革命である東學革命があり、また改革派といわれた知識人たちによる甲申政変が起こりました。しかしながらこの二つの革命は近代化を成功させる事が出来ませんでした、というのは、それは韓国内部の脆弱さという問題と同時に、外部からの攻撃、韓日併合という植民地化にあうからです。そのため、韓国にとっての近代の起点は不明瞭なものになってしまい、また現在でも、南北は分断といった問題によって近代の出発点を規定する合意を得ることは出来ませんから、それが、韓国の知識人に混乱をきたす原因となっているわけです。韓国が日本の植民地下にあったとき、日本の朝鮮総督府が組織した朝鮮美術展覧会(鮮展)というものがありました。それは、日本の文展、帝展を見習って作られた展覧会で、当事の韓国では美術家を輩出させる登竜門となっていました。しかしそれは、審査員の内韓国人は三割にも満たないという、日本人に占められた登竜門だったのです。



そんな展覧会ですから、日本がそれまで担ってきた近代文化的な画風に従う作家しか輩出されることがなかった訳です。鮮展は、芸術家にとっての登竜門、出世の入り口でしたから、今でも年輩の芸術家の中には、鮮展にいたことを誇りにしているという方もいます。そして韓国の初代大統領、李承晩は、大韓民国美術展覧会という国展を組織しました。しかしこれは植民地時代の鮮展作家を審査員とした、内容的は全く変わっていないようなものでした。このような状況のまま南北に分断され、イデオロギーの深刻な差が生じて行ったのです。

そうしたなか、日本や欧米に留学していた学生たちによって、西洋モダニズム美術はが紹介され、政治性を避けた美術が、純粋美術として広がって行ったのです。この政治性を除いた形式主義としてのモダニズム美術は、とくに日本の影響を強く受けています。理論的な指導者であった、作家であり評論家でもある李禹煥イ・ウーハンは、日本の美術評論の論壇で長く活動し、そこで得た名声をそのまま韓国に持ち込んできたのです。

またポストモダンでいうと、ビデオ作家のナムジユン・パイクがいます。彼は80年代に、アメリカで成功した作家ですが、アメリカでの成功によって韓国のポストモダンの象徴になったのだと言えます。つまり

韓国でのモダニズムやポストモダニズムは、日本やアメリカの流行的美術のモデルをそのまま提示しただけだと言えるわけです。ですから私はモダニズムにしろポストモダニズムにさえ批判的に見ています。


では次に、「肯定的な影響」を考えて見ましょう。

日本人として初めて韓国の美学を芸術の価値、固有のアイデンティティーを認めた人として、柳宗悦がいます。柳は、韓国の芸術性を高く評価する事で、韓国人に自尊心を植え付けたとも言えます。

柳宗悦著「朝鮮とその芸術」を私は、青年時代の必読書としていたのです。柳は、韓国芸術を中国や日本と比較することで、韓国独自の「線の美」という特性を見出し、再発見したことは特筆するべき成果です。素朴な自然美や民衆性、民衆の魂を読み取りました。民画から高い価値を見出し、再発見したことは、特筆するべきです。しかし柳がそこから見出した物は、悲哀の美でした。韓国の美の特性は、悲劇的な、恰も亡国の感情の反映であるという、誤解を引きおこした事も、事実で、それに対する批判も当然あるべきです。韓国の美には悲哀の美ではなく「恨の美」は、原初的な生命力として表現されているいるではないか、「神明の美」とでも言いましょうか、そういう美を、彼は見逃していたのではないでしょうか?富山妙子の「解放の美学」この本は、現代美術の変革の意識を追及し、政治変革との結合を述べようとしているのですが、それが挫折してしまった現実が記録されています。

◼自由が本性である芸術には、政治権力の現実と常に緊張関係を持ち続けるが、互いに存在し続ける事しか出来ず、克服したかと思うと、また起き上がる現実との闘いの反復という、まさにプロメーテウスのような宿命を担っているということなのです。

80年代、韓国で盛んであった民衆美術運動は、韓国独自の内省的なものでした。1986年にJAALA 展に初めて参加したのですが、原爆の図で有名な丸木位里、丸木俊夫妻が、原爆の犠牲になった朝鮮人の慰霊碑を作っていること。富山妙子氏が、光州事件、光州5・18民衆化運動をテーマに作品を作っていた事。針生一郎氏の著した「戦後美術衰退史」に在日同胞作家の曹良茎や韓国モダニズムの指導者であった李禹煥について記してありました。展示されていた作品にふれることで、私達の民衆美術運動が、単に自省的なだけではなく、多くの世界に共通する問題に立ち向かっている、ということを確認する事が出来たのです。

反面、芸術の絶望ということを、時折感じたりもします。例えばサイバー芸術、生命の美しさを避けた、技術に対する崇拝により人間の虚像を拡大していく、そんな最先端技術の芸術もあるようです。