わたしの好きな画家ー古沢岩美

軍事郵便・美の放浪 古沢岩美



四月四日前、ハガキ、及び「美術」受け取りました。キャンバスは更正の分だけで結構です。子供達も元気の由何よりです。大いに自然に親しませて下さい。福沢先生からもぐちやら励ましやらの手紙を頂きます。大東亜戦争美術のグラフも見ましたが、真実(自己にもー芸能的にも)の絵が何枚あったかを想ひ寒心の至りです。岡元氏とも語ったことですが自己の完成こそ国民絵画の誕生です。岡元氏も駄作の戦争画を描きましたがこの駄作こそ尊いと思ひました。少生もこの意味で駄作を描くことでせう。ドラクロアが「サルダナ・パール」の大駄作を臆面なく発表したように。

中略

軍靴の鋲が寸尺を刻んで欧州へ跡を印するであらふ様に文化の伸展もこの鋲の上に芽吹くのです。戦っているのは、個人でも兵隊でもないからです。

主婦之友社が、靖国神社の歌というのを一般公募した。当選歌を主婦之友社手帳に載せる事になって、その飾画を私に描けと言って来た。その頃の雑誌は婦人雑誌まで頁ごとに欄外に「贅沢は敵だ」「鬼畜米英」「一億一心」などと印刷されていた。私は絵の上部に満開の桜を描き、前景に塹壕に逆しまに突き刺さった歩兵銃、銃の上には敵弾に穴をあけられた鉄兜をのせ、遠くぼかして九段の鳥居を描いた。社の人達もほめてくれたのでそれは見返しに印刷された。ところが「こんな不届な絵を描いたエカキを呼んでこい」ときついお達し、陸軍省報道部に出向くと鈴木厘三少佐とかがカンカンに怒っている。「そこに直れ」と言わんばかりに「第一に一類兵器である歩兵銃を土につき刺すとは何事か」と云うのである。「第二に我軍に鉄兜は敵弾ぐらいではこんな穴はあかない。と怒鳴る。私はキョトンとして聞いていたが馬鹿馬鹿しくなり「穴があかなきゃ死なないでしょう、死んだから苦しまぎれに銃を土に刺したんでしょう」と云ったら「何ィ!貴様ッ!」といき巻いて軍刀の柄に手をかけんばかりであった。ついて来た社の人が仲に入ってその時はどうにか納った。私はまだ兵隊の経験が無かったので一類兵器がどんな物か分からなかったが、この一類兵器で入隊早々漢口でひどい目にあった。一類兵器とは歩兵銃、機関銃などでどこかに菊の御紋が彫ってあり、これを損傷すると重罪にされるのである。


この鈴木少佐の「国防国家と防空体制」といった本を主婦之友社が出版を命ぜられた。

装幀が私に来た。いやがったが是非にという事で引き受けた。私は考えに考えて、丸ビルの屋上にあがり、銀座方面の眺望を描き、これが吹飛んで、黒煙と赤い炎をあしらった。そして黒煙の中に赤で例の文字を入れて我乍ら上出来と思った。ところが又々陸軍省に呼び出された。「又貴様か何というふざけた絵を描く、我軍の守りは鉄壁である。敵機は一機たりとも本土に入れぬ」「そんならどんな絵を描けばいいんですか」といったら「男は第二国民服を着て戦闘帽をかぶり、女は国防婦人会の服装(白い割烹着で斜めに大日本帝国婦人会と書いたタスキをかける)で子供を抱き上げ、子供に日の丸を持たせ、後ろに靖国神社の鳥居を描け」といった。私はあきれて「敵機を一機も入れない自信があるなら世間を不安に陥れるだけだからこんな本は出す必要はないし、又貴方のいわれる通りの表紙なら皆んな死んで靖国神社に行けというんですか」といったからたまらない「何いッ、そこへ直れ」と今度は本当に軍刀を抜きかけた。私は切られると度胸を決めてあぐらを組んだ。すると「しぶとい奴だ」といってプイと席をはずした。責任者の岡本さんは「意地を張らずに何とかして下さいよ」と言われたが断った。そして鈴木少佐の云った通りの表紙が出来た。作者は宮本三郎であった。それから間もなくノース・アメリカンB25は東京の空を襲った。


あえて駄作を描く事=アバンギャルド芸術をやる事。その先陣を伐った人である。かれの筆に比べたら、かのドラクロア、アングル、ルーベンスさえ不器用に思える程。精緻で華麗であった。